ハーバード大の哲学者の理論を使って不倫を全力で正当化してみる 1

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「正義」について何十年も講義しているハーバード大学の教授がいます。マイケル・サンデルという、落ち着きと知的なウィットを兼ね備えるキレイなハゲ哲学者です。

YoutubeかTedで彼の講義の一部を観たのがキッカケで、著書 「Justice」を丸善とかそういう系の本屋で購入し、自宅の本棚に置きました。7年前に。

 

当時は洋書を読むより三國無双とかそういうゲームで「はははっ オレつえーー!」とか言ってる方が楽しい浅ましい人間だったのです。でも最近になってマイケル・ハゲテル教授のあの本をガッツリ読んでみました。

 

彼が言いたかったことは、二言で言うと「絶対な正義はまだ見つかっていない。これからみんなで見つけようね」ってことなんですが、なぜかと言うと正義は少なくとも3つの観点から見ることができて、どの観点から見るかによって、正義が覆ったりするからです。

 

何が正しいのか判断する時に用いる観点とは、大きく分けて次の3つです:

  1. より多くの人の豊かさに寄与するか
  2. 個人の自由を尊重するか
  3. 人間としての美徳を追求するか

それぞれの観点の下にさらに、いろんな考え方があって、全部を机上に並べると「アレ?これもしかして、見方によってどんな悪そうなことでもある程度正義だと主張できるんじゃね?」と思わざるを得ません。殺しや差別も見方によっては正義。

 

ドラッグや殺しなんかのベーシックな悪を正当化するには相当複雑な条件が必要ですが、マイケルくんに教えてもらった理論で世の中を見ると、「不倫」は結構な確率で正当化できるんじゃないか、とワタシは思ってしまいました。

 ということで、試しに、不倫が正当化される理論をいくつか展開してみようと思います。数記事に分けて。

 

ちなみに、このシリーズの目的は不倫をオススメしたり、不倫がバレた時の必勝言い逃れ法をご提供したりすることではありません。「不倫に踏み切るには正当な理由が必要な気がしてなかなか踏み出せない方」が確実に踏み出せるようになる理論的な考え方をいくつかご紹介するだけです。

不倫は世の中的にはタブーですから、家庭裁判所とかで弁解することになったとしてもここでお見せする理論が役に立つ保証はしませーん。

 

不倫することで家庭生活が豊かになる理論

まずは基本的なところからいきます。

「不倫し始めてから心が充実して、夫/家内に優しく接するようになった」なんて、よく聞く話ですが、どういう仕組みでこうなるのかご説明します。

 

その前に、今回の理論が当てはまる不倫男性と不倫女性をプロファイリングします。今回の不倫正当化理論は、男女問わず、こういった方が当てはまります:

  • わりといい大学を出て、わりといい企業に新入社員として入社
  • 20代後半、もしくは30代前半で結婚
  • 結婚後数年以内に子供を授かり、子育てに真面目に取り組む
  • 仕事がデキて、会社に信頼されている

つまり、はたから見れば教科書通りの人生を順調に歩んでいるYOU。利便性のために、このプロフィールに当てはまる人のことを仮に「フリネーゼ」と呼びましょう。

こういった幸せそうなフリネーゼはなぜ不倫に興味を持ってしまうのでしょう?

 

家が家でなくなる

そもそも、上のプロフィールのような人は、なぜ「人生順調」と認識されると思いますか?それは、社会が思う模範的な生き方に沿って生きているからですよね(この場合は日本という社会)。

いい大学に入学するのも、いい企業に入社するのも、仕事で成功するのも、結婚するのも、子育てだって、どれもカンタンなことではありません。でも彼らは社会が用意した試練を着実にクリアしていき、苦しみながらも自分の手で生活や家庭を築き上げていきます。

 

そうこうするうちに、「〇〇さんの旦那さん・奥さん」「〇〇ちゃんのママ・パパ」「婿・嫁」「家主」「マンションの理事」など、様々なレッテルを貼られていきます。そしてある時、こうしたレッテルというフィルターを通してでしか周りの人に見られていないことと、周りのその期待に応え続けようとして疲弊していっている自分に気がつくのです。

 

自分は本来内向的な性格なのに、妻や旦那の友人の前では社交的に振舞わなければならない。「デキる」イメージを保つために、どんなに疲れていても家事や育児をこなそうとする。家族や親族を失望させないために、結婚相手側の家族の風習に適応しようとする。

 

これまで周りの期待にことごとく応えてきた自分だからこそ、何に対しても手を抜けない。手を抜かないわけだから、わりとなんでも上手くいってしまう。

 

すると「周りの期待に応えるマシーン」になってしまい、自分が本当はどのような人間なのかわからなくなってしまいそうになる。

つまり、皮肉なことに、半生をかけて築き上げた生活や家庭が「パフォーマンスを見せるための仕事場」みたいな場所になってしまい、心が帰る場所がなくなってしまうのです。

 

犠牲の上に成り立つ幸せな生活

さて、アーシュラ K. ル=グイン という女流SFファンタジー作家がいます。ジブリ映画にもなった「ゲド戦記」の原作者です。

マイケル・サンデル教授は正義について論ずる中で、彼女の作品の一つ、「オメラスから歩み去る人々」という短編小説の話を用います。

おおまかなあらすじはこうです:

王も奴隷も無く、広告も株取引も無く、核兵器も無い、幸福な人々ばかりが暮らすオメラスという都市がある。しかしオメラスに住む人々は皆、ある秘密を知っている。

美しい都市の地下には、ひとつ部屋がある。窓はなく、扉には鍵がかかっている。そしてその部屋には一人の子供が座っている。子供は意識が虚ろで、栄養失調の状態にあり、誰にも気に留めてもらえない。

もしその子を自由にしてやって、陽が当たる場所に連れ出し、体を洗ってやって、食事を与えて、愛情を与えてやることができれば、それはもちろんいいことだ。

だがそれをすることで、地上の人々の愛と友情に満ちた営みも、子供たちの健康も、穏やかな天候も、毎年の豊作も何もかもが崩れ去る。それがこの豊かさの条件だと、皆が知っている。

Sandel, Michael J. Justice: what's the right thing to do? 2009. Farrar, Straus and Giroux. P. 40-41 より意訳

 

こんな都市はもちろん現実にはないわけですが、このお話から2つのメッセージが解釈できます。

社会の仕組みを極端に表すとオメラスになる」ということと、「全体の豊かさのために行うことが、必ずしも正義とイコールではない」ということです。

 

なぜこの話を持ち出したのかと言いますと、今回のプロフィールに当てはまるフリネーゼはオメラスの地下の子供のライトバージョンだからです。

 

フリネーゼは遊びに費やすこともできた10代、20代、30代の時間を一生懸命勉強したり、働いたり、育児をしたりして過ごしてきました。本当は遊びたかったであろう彼らは、何のために若い時の時間を犠牲にしているのでしょう?

それはもちろん、自分の将来の生活を豊かにするためと言えるでしょう。でも同時に、周りの人の豊かさを支えるために自分の欲求を抑えたり、自分を偽っているとも言えます。

 

仕事が大変過ぎたら、全て投げ出して会社を辞めたり、引きこもったりするという選択肢もあるのです。実際、多くの人はキャリアのどこかのタイミングで「もう辞めたい」とか「人生やめたい」などと何回か思うでしょう。

でもフリネーゼはそんなことはしません。だってそんなことしたら会社の他の人に迷惑がかかるし、家族が生活できなくなるし、「無職」だなんて家族の世間体にも悪いです。

 

家庭のことだって同じです。義理の両親とはあまり馬が合わない人もいると思います。子供の学校の行事や人付き合いが苦手な人もいると思います。本当は休みの日くらい家で三國無双して「ははは オレつえーー!!」してたいのになんで苦手な人付き合いをわざわざしなければならないんだ、などと思うはずです。

でもだからって、フリネーゼは義理の両親や学校の人間関係を避けるなんてことはしません。だってそんなことしたら旦那 or 妻 or 子供の世間体が悪くなります。

 

なんでこんなに他の人の世間体ばかり気にしないといけないのかなどと思いつつ、「やめる」ということをしない、それが今回のフリネーゼです。

 

なぜこんなに頑張ってしまうのかと言うと、社会の方針に沿った生き方をするよう教育されているからです。

彼らは子供の頃から成功すると褒められ、失敗すると叱られてきました。頑張れば褒められ、なまければ叱られてきました。つまり、周りの人にある意味、洗脳されてきたのです。(周りの人が極悪人なのだというわけではなく、社会がそういう風にできているのです)

 

結果的に、彼らは優等生でいること以外の選択肢は無いと思い込んでいるのです。そして「周りの人がハッピーであり続けるために、なんで私がこんな惨めな精神状態にならなければならないんだ」と、心のどこかで理不尽さを感じているはずです。

この点は、窓がない部屋に閉じ込められたオメラスの地下の子供の状況と共通するところがあります。

 

感覚的な理不尽さと「持ちつ持たれつ感」

本当は、フリネーゼの周りの人たちだって、なにかを犠牲にして人間関係や生活を守っています。

でも優等生の生活に疲れ切ったフリネーゼの精神状態はそういったことを気にかけたりできない時があります。それに、「誰のストレスの方が大きい」などと、精神的負担の大きさを量ったり比べたりすることは、そもそもできないのです。

 

周りの人が笑顔でいられるように、フリネーゼが自己を犠牲にして窓のない地下に閉じ込められたような生活を続けるには、感覚的な理不尽さを軽減する必要があります

感覚的な理不尽さを軽減するには、自分が周りの人のために犠牲を払っているように、周りの人も自分のために犠牲を払っている「持ちつ持たれつ」の状態であることを自覚する必要があります。

 

夫婦の関係はまさに「持ちつ持たれつ」ですよね。お互いが足りないところを補い合えれば、夫婦生活を円満に保つことができます。本来は相手が毎日のように自分を助けてくれる度に、感謝の気持ちを感じて生きるべきです。

 

でも実際は、相手の頑張りや自己犠牲の全てを目撃できるわけではありません。相手が職場でどれほど頑張っているかや、家族のために抱え込んでいるストレスの全てを知ることはできません。自分の苦労と相手の苦労を秤にかけて比べることもできません。

 

つまり、たまに「私の方があいつより自己犠牲してない?」と思ってしまい、夫婦生活における自分の立場について理不尽に感じてしまうことがあるのです。

 

そんな状態が長い間続くと、些細なことで不満が爆発し、ケンカしたり暴言を吐いたりしてしまい、最悪の場合、夫婦関係の危機にまで発展することがあります。

 

夫婦間に信頼関係があればそんなことにはならない、と思う方もいるかもしれませんが、お互いを何十年も100%信頼し続けることができる夫婦が世の中に何組いるでしょう?超人格者同士が巡り合って結婚するなんて200円の宝くじで1000円当たるような確率でしょう。

 

そんな低確率のプチ奇跡を基盤にした「持ちつ持たれつ感」では、平均寿命が80歳を超えた現代の先進国において結婚生活を死ぬまで維持し続けるには危う過ぎます。もっと確実な「持ちつ持たれつ感」が必要なのです。

 

罪悪感の力

マイケル・サンデル教授は著書で、アメリカの大学の入学者選考において黒人やヒスパニックといったマイノリティー人種を優遇する動き(アファーマティブ・アクションと呼ばれます)について言及します。

 

雇用や教育など、あらゆることについて伝統的に不利な立場に置かれてきた黒人や女性、少数民族を現代において優遇することによって、過去の冷遇の罪滅ぼしをする、「あの時はごめんね」的な意味合いの全国的な活動です。これにより、同じ成績や能力の白人と黒人の出願者がいた場合、黒人の方が優先的に受け入れられる可能性が高くなっています。

 

罪悪感は国家すら動かすのです。

 

そして、不倫することにより生まれる罪悪感もまた、非常に強力です。

 

本来は家族のために使うことができた時間を不倫相手に使う。その間、家事をしたり、お金を稼いだり、子供の面倒を見たりするのは結婚相手です。

両者の自己犠牲を秤にかけるまでもなく、こちらは家庭に労力を貢献していない。相手は貢献している。

罪悪感はこのような状況で生まれ、「この一時の自由は結婚相手の時間の犠牲の上に成り立っているんだ」と確実に感じることができます。夫婦関係が「持ちつ持たれつ」で成り立っていることを確実に自覚できるわけです。

 

不倫をすることで「一時の自由」をこっそり楽しむと、その代償として「罪悪感」という借金ができます。今回のフリネーゼは模範的日本人として育てられて来たわけですから、借金が出来てしまったら、返したくなるのです。きちんと利息をつけて

 

こうしてフリネーゼは、不倫相手との甘いひとときから家に帰ると、結婚相手の方にも自由な時間を持ってもらいたいという思いから家事を率先してやったり、子供の面倒を見たり、仕事により精を出したりします。そして、こうしたさらなる自己犠牲に理不尽さを感じることもなく、納得して家庭に奉仕するのです。

 

イヤイヤ家庭に奉仕する伴侶と、納得して家庭に奉仕する伴侶、どちらと共同生活を続けたいですか?